戦後から経済成長期にかけて個人消費を手助けしたのが「月賦」といわれる販売方式で、これが信販会社の設立に発展してきました。戦後間もない時期、国民は等しく貧しい暮らしを余儀なくされてきました。しかし、経済成長期に入って、ミシンや電化製品が登場したころ、これを購入する手段としてメーカーが月賦販売を開始し、丸井などの月賦百貨店とは別に、代金を立て替える専業の月賦(割賦)会社が誕生しました。51年、我が国初の割賦会社である日本信用販売(旧日本信販、現UFJニコス)が設立されます。官公庁や一流企業の職場で、百貨店の顧客向けにクーポンの発行をスタートさせました。旧日本信販のこうした躍進ぶりに対し、チケット販売を行う地方商店街の専門店会で組織する日専連百本専門店会連合会)やエヌシー日商連(日本商店連盟)は、旧通産省に信販会社と百貨店に対するクーポン規制を訴えました。これが信販会社の広域営業を規制する「昭和34年通達」(割賦販売の自粛に関する通達=異なる都道府県に所在する百貨店の店舗に共通して利用できるクーポンの発行禁止、一定金額以下での割賦販売の禁止)といわれるものです。専門店会に加盟する中小・小売り業者の保護は達成されましたが、日本信販は営業基盤の縮小・分割を余儀なくされました。しかし63年、消費者が利用する商店が消費者に月賦販売した債権を同社が買い取り、集金を代行するという仕組み「ショッピングクレジット」を開発しました。全国どこでも自由に分割払いができる画期的な商法で、割賦販売機能を自社で持たない中小の百貨店や専門店、メーカーが同社と次々に業務提携を結び、信販会社発展の大きな原動力となりました。信販業界の歴史は、旧日本信販の歴史といっても過言ではありません。
変動相場制の経験は、それを採用する以前に期待されたほどの成果は上げられず、不安定化投機も少なからず存在した。しかし、それでも固定相場制を続けた場合よりも、二度にわたる石油ショックをはじめとする大きな変動を乗り越えるうえで有効であったと考えられる。また、各国間のインフレ率の格差に基づく平価変更の圧力に絶えずさらされながら、無理矢理、固定相場制を守ろうとして国内均衡を犠牲にするよりもはるかにましであったし、変動相場制以後、準備通貨国の拡張的な金融政策が各国に拡大してインフレが波及するといったこともなくなり、主要国のインフレは六〇年代終わり頃よりも低い水準で推移してきた。さらに、経常収支の赤字を埋めるための外貨準備高の過不足を憂慮する必要もなくなった。為替レートの安定化のためには、各国が財政赤字の対GNP比を大幅に引き上げたり、インフレ的金融政策を採用したりすることによって、自国のファンダメンタルズを悪化させることのないように努力することが重要である。逆に、EMS加盟国の例にみられるように、国内均衡を大きく犠牲にしてまでも、為替レートの変動を避けようとすれば、その国は為替投機にさらされて、かえって為替レートの変動を大きくしてしまう。このように考えると、変動相場制は当初期待されたほどの成果を上げることができなかったとはいえ、現在のところ、考えられる国際通貨制度としては、最善のものであろう。
貸借対照表の借方、つまり「資産」の内容を見てみましょう。資産は流動資産、固定資産、繰延資産の3つに分けられています。「流動」や「固定」というのは、資産が1年より早く現金化するものか、1年を越えて所有し続けるものかで分かれています。これを1年基準(ワン・イヤー・ルール)と呼びます。この他に、仕入れから販売、代金回収のような営業循環に該当する項目を流動資産に分類し、それ以外を固定資産とする基準もあります。流動資産には、現金・預金、受取手形、売掛金など、短期間に資金化が可能で仕入れ代金などの決済資産となりうる貨幣制資産が計上されています。固定資産に計上されているのは、会社の土地や建物といった、長期にわたって保有される資産です。不動産などの資産のほか、長期間保有する株などの有価証券、また無形の固定資産として電話加入権などが含まれています。繰延資産というのは、新しい研究開発に投じた資金など、投資の効果が数期に及ぶものを、一括計上するのではなく繰り延べて計上したものです。